逸話篇

4. 一粒万倍にして返す

『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。』

一粒万倍 いちりゅうまんばい

一粒の種子もまけば万倍の粒となるの意で、少しのものもふえて多くの数になるたとえ。少しだとて粗末にはできぬの意にもなる(『広辞苑』)。「おさしづ」の用法も同じ。

「真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。」(さ・21・一・一ホ)

「一粒万倍の理を聞き分け。皆種より生えて来る。天の理に覚れてするなら、怖わき危なきは無い。」(さ23・6・29)。

このように「一粒万倍」「一粒万倍の理」の語句で用いられる。

『稿本天理教教阻伝逸話篇』には、飯降伊蔵が教祖(おやさま)から聞いた言葉がある。

「人間はこれやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」(第30話「一粒万倍」)

飯降伊蔵は、元治元年(1864)から10年間、教祖の杖柱として一人勤めたが、後に本席となった。信仰する者は、これと同じ心で通ることが大切で、そこに楽しみもある、という意味で、「おさしづ」にも出ている(さ29・10・10、さ36・9・18、さ同日)。

「稿本天理教教祖伝逸話篇」では、山中忠七(第15話)、増井りん(第65話)も同様の言葉を聞いている。また、ひながたの道の姿としても語られている(第4話)。

「一粒万倍」という言葉は、真実を蒔くこと、すなわち誠の心で通ることの大切さと、真実には先の楽しみがあるので、それを楽しむように、という意味がこめられている。

「一つ楽しんですれば一粒万倍にも返す理である。」(さ36・9・18)

ー改訂 天理教事典より抜粋ー