逸話篇

188. 屋敷の常詰

明治十九年八月二十五日(陰暦七月二十六日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。

 その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか。」と、尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ。」と言うので、不審に思いながらも、戸を開けると、五、六人の壮漢が、なだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる。」と、口々に叫びながら、台所の方へ乱入した。

 よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。

 彼等は、台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に、命がけで防ぎたたかった。

 折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が、近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駆け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。

 平野楢蔵は、六人の暴徒を、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。

 この日、教祖は、平野に、

 「この者の度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする。」

との有難いお言葉を下された。

註 お日待ち 前夜から集まって、潔斉して翌朝の日の出を拝むこと。それから転じて、農村などで、田植や収穫の後などに、村の者が集まって会食し娯楽すること。

飯降よしゑ(いぶりよしえ)

 慶応2年(1866)8月17日、大和国添上郡轢本村高品(現、天理市轢本町高品)に、父伊蔵、母おさとの長女として生まれた。

父伊蔵は念願の子どもを授けて頂いたお礼に教阻(おやさま)の許へ伺うと、教祖は、「何でもよきことは『よしよし』というのやから」とおおせられ、よしゑと名付けられた。よしゑは母に背負われ、手を引かれながら教祖のもとへ連れられて育った。

よしゑが12歳の時、右手の人差し指が痛むので母とともに教祖に伺うと、教祖は、「三味線を持て」と仰せになり、旦上皇も素直にお受けすると指の痛みは嘘のように消えてしまった。父の伊蔵が、「城下町の郡山へでも習いに行かせましょうか。」と申し上げると、教祖は、「習いにやるのでもない、この屋敷から教え出すものばかりや」と仰せになり、よしゑは明治10年(1877)から3年間教祖の許へ習いに通った。

明治13年9月30日(陰暦8月26日)初めて鳴物をそろえてのおつとめがおこなわれた。この時よしゑは三味線をつとめた。

教祖の仰せで明治15年、家族とともにお屋敷へ住み込み、明治16年の雨乞づとめには、教祖より頂いた赤衣を着て三味線をつとめ、明治20年教祖の身上がせまり一同の者が決死のおつとめにかかった時も、三味線をつとめた。

明治20年4月、よしゑは園原村の上田楢治郎と結婚し、「おさしづ」で、「行くのでも無ければやるのでもないで。一寸理を繋ぎに行くのやで。行ってもじきに帰るのやで。」と仰せられ、お言葉通り永尾家を立てることになった。

小さい頃から教祖の側で仕込まれたよしゑは、衣食住においても物の大切さをいつも人に説き、自分もかたく守り通した。尊いつとめ人衆の理を頂き、本部のおつとめには生涯鳴物をつとめた。昭和11年(1936)4月29日出直した。享年71歳。

〔参考文献〕植田英蔵『新版飯降伊蔵伝』(善本杜、平成7年)。天理教道友社編『天の定規一本席・飯降伊蔵の生涯』(平成9年)。