逸話篇

135. 皆丸い心で

明治十六、七年頃の話。久保小三郎が、子供の楢治郎の眼病を救けて頂いて、お礼詣りに、妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いた時のことである。

 教祖は、赤衣を召してお居間に端座して居られた。取次に導かれて御前へ出た小三郎夫婦は、畏れ多さに、頭も上げられない程恐縮していた。

 しかし、楢治郎は、当時七、八才の子供のこととて、気がねもなくあたりを見廻わしていると、教祖の側らに置いてあった葡萄が目に付いた。それで、その葡萄をジッと見詰めていると、教祖は、静かにその一房をお手になされて、

 「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」

と、仰せになって、それを楢治郎に下された。

久保小三郎

安政2年(1855)11月13日、奈良県添上郡矢田原村(現、奈良市矢田原町)に、東尾小四郎の二男として生まれる。

明治5年(1872)9月、小三郎(18歳)は同村久保家に婿養子(妻、同家長女ナラヱ)として迎えられる。

小三郎の入信は、高井猶吉の布教により、長男楢治郎(当時7、8歳)の眼の障りをたすけられたことによる(『稿本天理教教祖伝逸話篇』226-227頁)。

明治18年、宮森与三郎・高井猶吉の布教により、田原村を初めとする近隣の村々に道がついた。明治20年頃、両人の布教による100戸余りの講社を合併し、田原村に明元講結成のお許しを頂いた。この時、日頃から熱心であった久保小三郎が初代講元に選ばれたのである。

明治23年1月13日、田原村字矢田原(現、奈良市矢田原町乙146番地)に田原支教会のお許しを頂き、小三郎は初代会長に就任した。

以後、官憲による厳しい反対攻撃の中、小三郎は教勢の拡大に務め、明治42年2月28日、子息楢治郎に会長を譲る。

昭和3年(1928)5月4日、74歳で出直した。

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