明治十五年九月中旬(陰暦八月上旬)富田伝次郎(註、当時四十三才)は、当時十五才の長男米太郎が、胃病再発して、命も危ないということになった時、和田崎町の先輩達によって、親神様にお願いしてもらい、三日の間にふしぎなたすけを頂いた。そのお礼に、生母の藤村じゅん(註、当時七十六才)を伴って、初めておぢば帰りをさせて頂いた。
やがて、取次に導かれて、教祖にお目通りしたところ、教祖は、
「あんた、どこから詣りなはった。」
と、仰せられた。それで、「私は、兵庫から詣りました。」 と、申し上げると、教祖は、
「さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ。」
と、仰せ下され、次いで、
「あんた、家業は何をなさる。」
と、お尋ねになった。それで、「はい、私は蒟蒻屋をしております。」と、お答えした。すると、教祖は、
「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや。」
と、仰せになった。そして、尚つづいて、
「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」
と、お教え下された。
ところが、どう考えても、「高う買うて、安う売る。」という意味が分からない。そんな事をすると、損をして、商売が出来ないように思われる。それで、当時お屋敷に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損する事のない、共に栄える理である。」 と、諭されて、初めて、「成る程、」と得心がいった。
この時、お息紙とハッタイ粉の御供を頂いてもどったが、それを生母藤村じゅんに頂かせて、じゅんは、それを三木町の生家へ持ちかえったところ、それによって、ふしぎなたすけが相次いであらわれ、道は、播州一帯に一層広く伸びて行った。