逸話篇

130. 小さな埃は

明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。高井は、「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、

「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」

と、仰せ下された。高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。

高井猶吉(直吉)について

高井猶吉

高井猶吉は文久元年(1861)1月19日、河内国志紀郡老原村(現、八尾市老原)の農業高井猶右衛門とみのの長男として生まれた。

2歳の時の大けがで足が不自由となり、祖母は猶吉に家代々の農業を継がせず、13歳の時、桶屋に奉公に出した。

明治7年か8年頃、姉のおなおは産後の肥立ちが悪く元に戻らず困っていた。その頃河内から大和地方へ塩魚の行商に往来していた人から大和庄屋敷村の神様の噂を聞いた。早速大和の方に向かい御供えしてお願いしたところ、2、3日のうちに御守護を頂き、家族一同信心するようになった。

明治12年(1879)猶吉19歳の年、「ぜいき」と呼ぶ性悪な感冒がはやり、村人の中から14、15人死亡者を出した。猶吉もその感冒に罹った。この時家族も懸命に神様にすがり、河内から大和を遥拝し祈願した。すると間もなく御守護を頂くことができた。これより断然桶屋をやめ、まだ見ぬ大和の神様のもとへ御礼詣りに行った。

その後1年の半分は老原で桶職で稼ぎ、あと半分はおやしきへ参拝し、おやしきの御用を勤めた。当時おやしきは官憲の厳しい迫害干渉の中にあった。また経済的不如意の時代でもあった。秀司は信者が警察の監視の中でも参拝できるよう便法として、明治9年頃から蒸風呂兼宿屋業を経営した。

猶吉は河内には別段用事もないのでおやしきに滞在して、宮森与三郎(当時は岡田与之助)とともに、毎日の泊り客(即ち信者)の食事などを手伝い、夜は宿泊人の止宿届けを丹波市警察署へ届けに行った。1日の仕事が片づくと教祖(おやさま)の御前に行って、1日の出来事を報告し、教祖のお話を聞かして頂いた。

明治13年猶吉20歳の年から、おやしき住み込み青年第1号として、宮森与三郎と共に、おやしきに住み込むことになった。猶書は素直、正直、無口、誠実によく働いた。おぢばでは道の先輩から深く教理を学んだ。

明治16年3月、教祖の命を受けて猶吉は宮森与三郎、井筒梅治郎、橘善吉らと静岡県山名郡広岡村の諸井国三郎(後の山名大教会初代会長)の天輪講(後に遠江真明講と改称)を訪ねた。道の理を伝え、「てをどり」の稽古をつけた。

またこの年、既に明治8年頃から庄屋敷村、三島村で信仰していた人達が、天元(てんげん)講を結び、16年安達秀治郎を講元に選んだ。猶吉は庄屋敷村の北田嘉市郎宅に寄寓しておやしきへ運んでいたので、傍ら天元講の世話取りに当たり、講勤めの後、神様の話を取り次いだ。

同じ明治16年の5月、中之庄村(現、天理市中之庄町)の沖田源太郎の娘ふじ(当時13歳)が重病を患い、源太郎の妻は庄屋敷村の城(じょう)の家の出であるところから、城家より教祖におたすけを願いに来た。教祖は猶吉を中之庄へ遣わし、猶吉のおたすけによって娘は助かった。中之庄村の人々もたすけをうけ講社ができた。この年天元(あまもと)組<読み方が異なる>が結成され、翌明治17年森川重太郎が講元となった。明治25年天元組は奈良支教会所となった。

猶吉は明治17年3月2日、教祖より「息のさづけ」を頂いた。この日の前夜、猶吉は夢を見た。翌日教祖に夢の様子を申し上げると、「まだ早いと思うたけど、先に渡しておく。結構な徳を頂くのやで」と仰せになって、息のさづけをお渡しになった。また、お召しになっていた赤衣を脱いで山澤ひさの手を経て、その赤衣をお渡しになった。その時「おたすけに行く時は、この赤衣を身につけて行くのやで。お前はまだ若い。赤いものを着て歩くのは恥ずかしかろうから、懐に入れて持って行き、おさづけを取り次ぐ時に着て、取り次ぐように。その時は月日の名代やで」と仰せになった。こうして猶書は、教祖からじかに仕込みを受け、後々教祖の話をそのまま伝えた。

「教祖から聞かせて頂いた話を、わしは何回でも同じ話をする。自分の考えや、勝手な言い廻しは一言も入っていない」と語った。

明治21年猶吉28歳の年、神道天理教会が公認され、7月おぢばに天理教会本部が開設された。猫舌は教会本部庶務掛、明治25年派出掛拝命。明治31年に泉支教会所3代会長、34年には堺支教会所事務取扱、40年には高知県所在教会組合長、愛媛県・三重県などの組合長を歴任。明治41年12月天理教会本部役員、43年高知兼徳島教務支庁長、大正8年には京都・滋賀・福井・石川・富山の各教務支庁長を拝命。かずかずの重責を果たした。晩年数少い息のさづけ拝戴者の一人として、お息の紙を作るうえに老躯を鞭打ちつとめきった。

昭和16年(1941)81歳の出直しの前日まで増井りんと共に、和紙に一日に4,000枚ほど息をかけた。11月21日人々に惜しまれながら出直した。
〔参考文献〕高井猶久編『高井家資料』(1991年)。