逸話篇

3. 内蔵

教祖は、天保9年10月26日、月日のやしろとお定まり下されて後、親神様の思召しのまにまに内蔵にこもられる日が多かったが、この年、秀司の足、またまた激しく痛み、戸板に乗って動作する程になった時、御みずからその足に息をかけ紙を貼って置かれたところ、10日程で平癒した。

内蔵にこもられる事は、その後もなお続き、およそ3年間にわたった、という。

内蔵(うちぐら)

内蔵とは一般に、庭蔵に対して母屋に隣接して建てられた蔵や、家の軒先に設けた蔵、家の中にある蔵を指す。

「おやしき」の内蔵は、教祖(おやさま)の御休息所の北側に隣接して建てられていた(内蔵の建築時には御休息所は無い)。約4間と2間半、延べ坪20坪余の建物である。

内蔵

通称乾蔵、土蔵とも呼ばれた。明治13年(1880)に建造されている(明治13年から14年にかけて建築されたと伝える史料もある)。衣裳などを入れる衣裳蔵ともいうべき蔵とか、古い先人たちの最初の集合場所であったとの説も見られるがはっきりしない。

明治20年2月18日(陰暦正月26日)、教祖が硯身を隠された直後、一同が、神意を伺うためにこの内蔵の2階に集まって「おさしづ」を仰いだ所として知られている(『稿本天理教教祖伝』333頁)。

今日では、表通常門(中南の門屋)、つとめ場所、御休息所と共に記念建物として、教祖殿北側に当時の姿のまま保存されている。

なお、教阻は、天保9年(1838)10月26日、「月日のやしろ」となられて以降、約3年間にわたって内蔵にこもられたといわれている。このときの内蔵と、ここに述べた内蔵とは別である。

ー天理教事典 第三版より抜粋ー

中山 秀司(なかやま しゅうじ)

文政4年(1821)7月24日中山善兵衛、みき(教祖)の長男として生まれ、善右衛門を襲名する。

天理教立教の機縁として、天保8年(1837)10月26日、足痛となる。

立教は翌年の同月同日、秀司18歳の時である。

立教以来、教祖(おやさま)のかたわらにあって、今日の天理教の礎を築いた。ことに、教えが近隣諸国から遠方まで広まるにつれ、神官、僧侶、医者などの弁難攻撃、さらに官憲の圧迫干渉が激しくなったので、秀司は心を砕き、布教公認や教会設置認可を得て、安心して教えを説くことのできる道を講じた。

慶応3年(1867)7月、京都の吉田神祇管領より神祇祭祀の認可を取りつけ、明治維新で吉田神祇管領が廃止になると、明治9年(1876)、堺県より風呂屋兼宿屋業の監札を受けて開業。さらに明治13年(1880)9月、金剛山地福寺へ願い出て、仏式教会を設立した。しかし、これらは親神の意に適うところではなかった。

明治2年(1869)秀司49歳のとき、親神の思召で平等寺村の小東まつゑ(当時19歳)と結婚、たまへをもうける。それまでに、内縁関係にあった女性との間に、しゅう(おしゅう)(嘉永6年生)、音次郎(安政5年生)の二人の子供をもうけている。

結婚に先立ち内縁の妻おちえと音次郎は里方へ帰した。しゅうは翌明治3年出直した。

立教の機縁としての秀司の足痛は、「つとめ」によってこれを治すという親神の「ためし」であった。

しかし、天理教の発展とともに、教祖にふりかかる世間からの圧迫干渉は、秀司にとって心痛のたねであった。教えの公認は秀司の念願であり、そのため種々の方策を講じたのである。これらはもとより親神の許すところでなく、ひたすら「神一条」であるべきことを求めた。秀司は教え(理)と人間思案(情)との板挟みとなった。国家や法に対する天理教信者のとるべき態度を秀司を台として教えられたものと言える。

秀司は、貧のどん底の中、親神の命で常に紋付を着て野菜を行商していたので、「紋付さん」の愛称がある。明治14年4月8日出直した(61歳)。

〔参考文献〕橋本武『ひながたの蔭に』(天理教道友社、昭和27年)。『ひながた紀行』第15章(天理教道友社、1993年)。

ー天理教事典 第三版より抜粋ー