逸話篇

109. ようし、ようし

ある時、飯降よしゑ(註、後の永尾よしゑ)が、「ちよとはなし、と、よろづよの終りに、何んで、ようし、ようしと言うのですか。」と、伺うと、教祖は、

 「ちよとはなし、と、よろづよの仕舞に、ようし、ようしと言うが、これは、どうでも言わなならん。ようし、ようしに、悪い事はないやろ。」

と、お聞かせ下された。

飯降よしゑ(いぶりよしえ)

 慶応2年(1866)8月17日、大和国添上郡轢本村高品(現、天理市轢本町高品)に、父伊蔵、母おさとの長女として生まれた。

父伊蔵は念願の子どもを授けて頂いたお礼に教阻(おやさま)の許へ伺うと、教祖は、「何でもよきことは『よしよし』というのやから」とおおせられ、よしゑと名付けられた。よしゑは母に背負われ、手を引かれながら教祖のもとへ連れられて育った。

よしゑが12歳の時、右手の人差し指が痛むので母とともに教祖に伺うと、教祖は、「三味線を持て」と仰せになり、旦上皇も素直にお受けすると指の痛みは嘘のように消えてしまった。父の伊蔵が、「城下町の郡山へでも習いに行かせましょうか。」と申し上げると、教祖は、「習いにやるのでもない、この屋敷から教え出すものばかりや」と仰せになり、よしゑは明治10年(1877)から3年間教祖の許へ習いに通った。

明治13年9月30日(陰暦8月26日)初めて鳴物をそろえてのおつとめがおこなわれた。この時よしゑは三味線をつとめた。

教祖の仰せで明治15年、家族とともにお屋敷へ住み込み、明治16年の雨乞づとめには、教祖より頂いた赤衣を着て三味線をつとめ、明治20年教祖の身上がせまり一同の者が決死のおつとめにかかった時も、三味線をつとめた。

明治20年4月、よしゑは園原村の上田楢治郎と結婚し、「おさしづ」で、「行くのでも無ければやるのでもないで。一寸理を繋ぎに行くのやで。行ってもじきに帰るのやで。」と仰せられ、お言葉通り永尾家を立てることになった。

小さい頃から教祖の側で仕込まれたよしゑは、衣食住においても物の大切さをいつも人に説き、自分もかたく守り通した。尊いつとめ人衆の理を頂き、本部のおつとめには生涯鳴物をつとめた。昭和11年(1936)4月29日出直した。享年71歳。

〔参考文献〕植田英蔵『新版飯降伊蔵伝』(善本杜、平成7年)。天理教道友社編『天の定規一本席・飯降伊蔵の生涯』(平成9年)。