逸話篇

12. 肥のさづけ

教祖は、山中忠七に、

 「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、

 「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。」と、お諭しになり、

 「嘘か真か、試してみなされ。」と、仰せになった。

 忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。

 やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。

 忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ。」と、疑わざるを得なかった。

 ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、蟲が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、蟲穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。

山中忠七(やまなかちゅうしち)

文政10年(1827)大和国式上郡大豆越村(現、桜井市大字大豆越)で、山中彦七、上里の二男として生まれる。

長男が早く亡くなったため家督をつぐ。山中家は近隣に聞こえた田地持ちで村の役職を務めていた。生来正直で働き者であった忠七は、その故をもって藩主から表彰されたこともあり、人びとの尊敬を集めていた。

文久2年(1862)、忠七36歳の時、平和な山中家に嵐のように不幸が襲った。その1年間に3度も葬式をした。それに加えて、妻の皇聖が長の病床に伏したのである。文久3年も暮れ、4年の正月を迎えたが、死を待つばかりの病人を抱えて山中
家の人びとは途方に暮れた。そんな時、すすめる人があって教祖におたすけを願うことになった。

「おまえは神に深いいんねんがあるから、神が引き寄せたのである。病気は案じることいらん。すぐにたすけてやるほどに。そのかわり、神のご用を聞かんならんで」というお言葉を頂き不思議な救済に浴した。これが山中家の信仰のはじまりであり、忠七が38歳の時である。

その後、忠七は熱心に信仰を続け、元治元年(1864)の「つとめ場所」の普請の時には費用を引き受けて尽力した。また、教祖から

「大豆越の宅は神の出張り場所」という言葉や、「これまで、おまえにいろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろまい。神の道についてくるのに、物に不自由になると思い心配するであろう。なんにも心配することはいらん。不自由したいと思うても不自由しない確かな証拠を渡そう。」として、「永代の物種」を頂いている。天理教の草創時代、この道に深いかかわりをもって活躍し、明治35年11月22日、76歳で出直した。
〔参考文献〕大和真分教会『山中忠七伝』。

ー改訂 天理教事典より抜粋ー

山中忠七に関する記事