明治五年七月、教祖が、松尾市兵衞の家へお出かけ下されて、御滞在中の十日目の朝、お部屋へ、市兵衞夫婦が御挨拶に伺うと、
「神様をお祀りする気はないかえ。」
と、お言葉があった。それで、市兵衞が、「祀らせて頂きますが、どこへ祀らせて頂けば宜しうございましょうか。」 と、伺うと、
「あそこがええ。」
と、仰せになって、指さされたのが、仏壇のある場所であった。余りに突然のことではあり、そこが、先祖代々の仏間である事を思う時、市兵衞夫婦は、全く青天に霹靂を聞く思いがした。が、互いに顔を見合わせて、肯き合うと、市兵衞は、「では、この仏壇は、どこへ動かせば、宜しいのでございましょうか。」 と、伺うた。すると教祖は、
「先祖は、おこりも反対もしやせん。そちらの部屋の、同じような場所へ移させてもらいや。」
との仰せである。
そちらの部屋とは、旧客間のことである。早速と、大工を呼んで、教祖の仰せのまにまに、神床を設計し、仏壇の移転場所も用意して、僧侶の大反対は受けたが、無理矢理、念仏を上げてもらって、その夜、仏壇の移転を無事完了した。そして、次の日から、大工四名で神床の工事に取りかかった。教祖に、
「早ようせんと、間に合わんがな。」
と、お急ぎ頂いて、出来上がったのは、十二日目の夕方であった。翌朝、夫婦が、教祖のお部屋へ御挨拶に上がると、教祖はおいでにならず、神床の部屋へ行ってみると、教祖は、新しく出来た神床の前に、ジッとお坐りになっていた。そして、
「ようしたな。これでよい、これでよい。」
と、仰せ下された。それから、長男楢蔵の病室へお越しになり、身動きも出来ない楢蔵の枕もとに、お坐りになり、
「頭が痒いやろな。」
と、仰せになって、御自分の櫛をとって、楢蔵の髪をゆっくりお梳き下された。そして、御自分の部屋へおかえりになった時、
「今日は、吉い日やな。目出度い日や。神様を祀る日やからな。」
と、言って、ニッコリとお笑いになった。夫婦が、「どうしてお祀りするのかしら。」 と思っていると、玄関で人の声がした。ハルが出てみると、秀司が、そこに立っていた。早速、座敷へ案内すると、教祖は、
「神様を祀る段取りをされたから、御幣を造らせてもらい。」
と、お命じになり、やがて、御幣が出来上がると、御みずからの手で、神床へ運んで、御祈念下された。
「今日から、ここにも神様がおいでになるのやで。目出度いな、ほんとに目出度 い。」
と、心からお喜び下され、
「直ぐ帰る。」
と、仰せになって、お屋敷へお帰りになった。
仏壇は、後日、すっきりと取り片付けた。