嘉永五年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。教祖の三女おきみの人にすぐれた人柄を見込んで、櫟本の梶本惣治郎の母が、辻家の出であったので、梶本の家へ話したところ、話が進み、辻忠作を仲人として、縁談を申し込んだ。教祖は、
「惣治郎ならば、見合いも何もなくとも、心の美しいのを見て、やる。」
と、仰せられ、この縁談は、目出度く調うた。おきみは、結婚して、おはると改名した。
惣治郎は、幼少の頃から気立てがよく素直なため、村でも仏惣治郎と言われていた、という。
梶本 惣治郎(かじもとそうじろう)
文政10年(1827)大和国添上郡櫟本村(現、天理市櫟本町)で、父惣兵衛、母きみの二男として出生。
嘉永5年(1852)中山善兵衛、みきの三女はると結婚、子ども7人を授かったが、そのうち三男眞之亮(新治郎)は、中山秀司の長女たまへに入婿、初代真柱となった。櫟本にあって鍛冶屋の業によく励み、その晩年は中山家を側面より補佐しつつ、明治20年(1887)5月19日出直した(61歳)。