逸話篇

31. 天の定規

教祖は、ある日飯降伊蔵に、

「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」

と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、

「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」

と、仰せられ、更に続いて、

「隙がありませんか。」

と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」 とお答えすると、教祖は、

「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」

と、お教え下された。

飯降伊蔵

「本席」として、さしづを伝え、さづけを渡された飯降伊蔵は、天保4年(1833)12月28日、大和国宇陀郡向淵村(硯、奈良県宇陀郡室生村大字向淵)に飯降文右衛門、れいの四男亀松として生まれた。5人兄弟姉妹の5番目で
あった。

8歳の頃から寺子屋に通い、14歳の時、車大工のもとで修業を始めた。安政2年(1855)22歳の頃、櫟本に出て、従姉の夫のもとで大工修業を続けた。結婚をしたが、死別。まもなく再婚したが、離縁。

文久元年(1861)、29歳の時、小夫村の馬場武右衛門の長女さと28歳と結婚し、轢本字高品に移った。

元治元年(1864)5月、2度目の流産をしたさとが床に就いた。椿尾村の大工・喜三郎(異説あり)から「庄屋敷に産に妙のある神様が現れた」と教えられ、大急ぎでおぢばに参詣、散薬を頂いて帰る。翌日は朝と夕に参詣。3日目には自分で食事をするまでになった(『稿本天理教教祖伝」49-51頁参照)。

時に伊蔵32歳、旦皇31歳。この頃、教祖(おやさま)は
「待っていた/\。思惑の大工が来た。八方の神が手を打って待っている」と仰せられている(さ34・5・25参)。

6月25日、伊蔵夫婦は揃ってお礼参りをした。翌7月26日、おぢばに参拝してお杜の献納を申し上げた。ここに「つとめ場所」の普請が始まる(『稿本天理教教祖伝』53-55頁参照)。この日、伊蔵夫婦は、ともに扇と御幣のさづけを頂いた。教祖は「大工は伏せ込んだ」と仰せられたという。

つとめ場所は、伊蔵の手で10月26日に上棟。お祝いをしたが酒が足りず、さとは酒屋に走った。しかし貸してもらえず、代金の代わりに帯を置いてようやく1升の酒を持って帰っている。

翌27日、大和神社の事件となり、伊蔵も3日間留め置かれた。できかけていた講社もバタリと止まった(『稿本天理教教祖伝』56-58頁参照)。しかし、伊蔵は独りで普請を引き受けた。同年末の26日、一旦櫟本へ帰り、翌27日、また戻って材木屋と瓦屋に支払いを断りに行っている(『稿本天理教教阻伝』60-61頁参照)。つとめ場所は、年が明けてできあがった。

伊蔵夫婦は、普請の時からおやしきに詰め切り、元治元年から慶応2年(1866)頃まで約3年間住み込んだ(「翁より聞きし咄」)。「おさしづ」には「どちらこちら草生え……その時貰い受け、荷物持ってやしきへ伏せ込んだ一つの理、」(さ31・8・26)とある。ときには、秀司、主を友と夜更けまで、「神様はこう言やはるけれど、先は案じるで。お前はどう思うで。」(さ31・8・26)
と語り合うこともあった。ある年の暮、夜12時過ぎに、寒いから暖まりたいと柴を探したが何もなく、松葉を焚いて差し上げたこともあるという(さ29・3・31参照)

慶応元年6月の夕方、僧侶が乱入し、こかんが応対した。伊蔵は隣の6畳で身構えていた(さ31・12・31参照)。同年10月の助造事件の時は、針ケ別所村まで教祖のお伴をした。

慶応2年8月、長女よしゑが生まれた。教祖は名前を付け、「親子諸共伏せ込んだ」と言われたという(さ31・8・2参照)。

この頃、伊蔵は轢本へ戻った。昼は大工仕事をしたが、おやしきへは毎日通った。元治元年から明治5年(1872)まで丸9年間、大晦日におやしきへ帰るのは伊蔵一人だけであった(さ34・5・25参照)。掃除をし、神祭りをし、夕食も済ませて家に帰った。

慶応4年冬、長男政治部誕生。明治4年4月、二女まさゑ誕生。しかし同年、政治郎は出直した。ある日、教祖はさとに「政治郎を返してやるで。今度できたら男やで」と仰せになり、政甚と名付けられた(さ33・3・29参照)。

この頃、教祖は筆を取り4首の歌を書いて渡された。後年の「おさしづ」には、「最初先になれば、どうなるという話から楽しまして、一筆書いて、理を頼りに連れて来た道である。」(さ31・12・31)とある。

同じ頃、教祖から「朝起き、正直、働き」「一粒万倍」についての言葉も聞かせて頂いている。
明治5年頃までの約10年間、手伝いに来るのはほとんど伊蔵だけであった。後年の「おさしづ」には「三十年以来親子諸共という、これ杖柱という理、」(さ30・8・14)とある。

明治6年、伊蔵は仰せにより、かんろだいの雛型をつくった。明治7年、二男政甚が生れた。教祖は「先に名前を付けてあるで」と喜ばれた。

明治8年9月、こかん出直し。伊蔵は中南の門屋の普請に掛かっていた。さとは子供の小遣いにでもと小店をだしたが、貸し倒れなどで間もなく廃業。

この頃、伊蔵はよく夜中に起き上がり、「国々所々名称の旗や提灯立てに来るで。」などと言ったが、自分では覚えていなかった。この前後に、伊蔵は「言上の許し」を頂いた。

明治12年、小二階、明治14年には内蔵を建てた。
4月に秀司が出直した。

教祖は「一日も早く屋敷へ帰るよう」と繰り返し言われていた。その度に決心をしてみるものの、延び延びになっていた。

明治14年、櫟本で普請中、踏み台にしていた樽がこけて投げ出され、戸板でおぢばに運ばれた。教祖は「神が落としたと仰っしゃるで」と仰せられたという。しばらく仕事を休んだが、まさゑは眼病、政甚も口が聞けなくなった。

さとがお願いにあがると「政治郎のことを覚えているかえ」などと仰せられ、さとは、帰らせて頂くと誓った。伊蔵に相談すると、今まで通りの信心を続けるのがよい、と言う。板挟みになったが、9月、さとは、まさゑ11歳、政甚8歳の二人を連れてお屋敷に住み込んだ(『稿本天理教教祖伝逸話篇』148頁参照)。伊蔵も、翌15年3月、よしゑ17歳とともに住み込んだ(『稿本天理教教祖伝逸話篇』164頁参照)。伊蔵49歳、呈上48歳であった。

翌4月、中山家の宿屋と空風呂は、さと名義に切り替えた。
この明治15年10月、教祖は奈良へ御苦労になったが、伊蔵は教祖と行き違いに奈良監獄署へ送られた。

11月、まつゑが出直し、宿屋と空風呂は廃業された。
同11月、御休息所の普請に掛かり、翌16年秋には内造りもでき、伊蔵の仕事納めとなった。
この頃、伊蔵は内職にお杜を拵え、子供の養育費にあてていた。教祖は「お前も辛かろうなあ。しかし、先になれば難儀するにも難儀でけん」と慰められたという。伊蔵は慣れぬ鍬を手に百姓仕事もしていた。山仕事にも行った。食事はいつもカマドをお膳の代わりにしていた。さとは、ご飯炊きや下働きをしていた。後年の「おさしづ」には、「百姓から肥はきまでして来た者」(さ32・8・26)とある。

明治15年頃からは「仕事場」と呼ばれて神意を伝えることが多くなる。教祖に伺うと「伊蔵さんに聞いて来い」と仰せられることも度々であった。

明治20年2月18日(陰暦正月26日)、教祖は現身を隠された。3月11日、伊蔵は身体がだるくなり床に就き、日に日に衰弱した。全身に汗が出て、飴のように糸を引いた時もある。その間も、「おさしづ」は毎日あった。17日には、
「さあ/‾\これからは綾錦の仕事場。錦を仕立てるで。」(さ20・3・17)
とあり、3月25日、「さあ/\本席と承知が出けたか/\。」(さ20・3・25)
とさしづがあった。真柱より、本席と承知、と答え、伊蔵は「本席」と定まり、さしづを伝えることになった(55歳)。翌26日夜、最初のおさづけを渡している。
後年の「おさしづ」には、
「十二下りの止めは大工、」(さ31・7・14)
「大工に委せると言うたる。」(さ34・5・25)
「ふでさきにも出してある。元々の話聞いて成程の理と思うだけの者貰い受けた。」(さ27・3・4)
とある。また、
「三人五人十人同じ同席という。その内に、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである。」(さ20・3・25)
とあるが、
「同じ同格という。大いの間違い跨りある。……掛かりどうも難しいてならなんだ。その時杖柱にした。」(さ31・8・2)
ともある。

明治20年4月、長女呈_ヒ冬は上田楢治郎と結婚、まもなく永尾家を立てた。

明治15年、本席が住み込んだ時は内蔵の中2階6畳に住んだ。御休息所普請にともない明治15年10月頃からは小二階と呼ばれる建物の下に移り、竣工後は、中南の門犀に移った。明治22年5月、本席宅が新築され、一家はそこに移った。26年3月18日、妻さとが出直した。同日夜の刻限には、
「御席さん/\四五年の間、まことに悠るりとさして貰た。」(さ26・3・18)
と、互生の気持ちが語られている。

しかし、明治25年8月には改めて本席宅の普請を促され、翌26年12月、本席御用場竣工。同3日、引き移り。この時、よしゑ、まさゑがお伴できなかったので一時古家に戻る。従来の本席宅は、永尾宅となった。本席の食事は永尾家で世話をした。明治28年、政甚は宮川小梅と結婚。明治32年10月、永尾楢治郎出直し。32年11月、御用場の南に一軒新築された。

本席となって後は、各地の教会へ巡教もした。
明治23年、大阪。24年、東京、静岡。25年、大阪、和歌山。26年、大阪。27年、兵庫、岡山、高知。28年、三重、東京。30年、東京。その他。

こうした折には、どんな人にも心安く話し掛けた。教祖の墓地へ参拝する時なども、帽子をとって、「皆さん、ご苦労さん、ご苦労さん」と挨拶した。帽子を取って挨拶するとき頭にはまだちょんまげがあった。

明治40年3月13日、「百日のおさしづ」が始まる。
本席となってからは、度々身上となっているが、この時も間もなく身上となった。
まず、上田ナライト宅の普請を急き込まれ、4月2日に地所が決まった。4月8日から10日までは、3人の子供について、心の置き所を仕込まれた。
また、3月22日、「今度教祖の普請に掛かる」、4月5日、「三十年祭々々々々」(さ40・4・5)と、普請をさしづされた。数日間は気分もよく、建築用材を山へ兄にも行かれた。5月8日(陰暦3月26日)、「二十六日夜定まったという声を」とのさしづに、真柱より、「分かりまして御座ります」と答え、6月3日には、普請の計画もほぼ決まった。
同月6日早朝、おさづけをナライトに運ばせることになった。この時「肩の荷が降りた」と言われ、この日から子供のように無邪気になった。
9日朝、一旦息が切れたが、息を吹き返し、昼食もとった。そして「おおきにご馳走さん」と礼を言ったが、両手を膝に置いたまま出直した。時に明治40年6月9日、享年75歳であった。葬儀は、7日間通夜をした後、15日に執行。
「席と言えば皆下のように思うなれども、ひながたと思えばなか/\の理がある。」(さ22・10・9)
と言われる生涯であった。

〔参考文献〕中山正善『ひとことはなし』『ひとことはなしその二』(天理教道友杜、昭和11年)。奥谷文智『本席飯降伊蔵』(天理教道友社、昭和24年)。植田英蔵『新版飯降伊蔵伝』(善本社、平成7年)。天理教道友社編『天の定規一本席・飯降伊蔵の生涯』(平成9年)。