逸話篇

50. 幸助とすま

明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思って、許しを得て、朝八時伊豆七条村の家を出て、十時頃お屋敷へ到着した。すると、教祖は、マスに、

 「村田、前栽へ嫁付きなはるかえ。」

と、仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、「はい、有難うございます。」 と、お答えした。すると、教祖は、

 「おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい。」

と、仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛は、もう、すっきり治っていた。

 それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂こう、ということになり、翌二十三日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、

 「オマスはんを、村田へやんなはるか。やんなはるなら、二十六日の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ。」

と、仰せになったので、伊三郎は、「有難うございます。」 と、お礼申し上げて、伊豆七条村へもどった。

 翌二十四日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、

 「オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おまはんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ。」

と、仰せになったので、イヱは、「有難うございます。」 と、お答えした。すると、教祖は、

 「二十六日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはんの方へ連れてかえり。」

と、仰せ下された。

 二十六日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。

 前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持って、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(註、当時二十六才)が、お屋敷へ帰って来た。
 そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、

 「今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで。」

と、お言葉を下された。

 この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、後、明治十二年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した。

註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。(近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙)

桝井 伊三郎(ますい いさぶろう)

嘉永3年(1850)2月12日、大和国添上郡伊豆七条村で農業を営む伊三郎、キクの三男に生まれた。幼名を嘉蔵といい、ついで伊右衛門と呼ばれ、父伊三郎が明治元年(1868)に出直したのち、伊三郎を襲名した。19歳のときであった。

伊三郎の入信は元治元年(1864)であるがその前年、母は夫が喘息で難渋しているため、あちらこちらの神仏に願いをかけていたが、よくならなくて、困り果てていた。隣家で傘屋を営んでいる矢迫仙助から、庄屋敷の神さんに参るよう勧められ、早速庄屋敷へ急いだ。そして教祖(おやさま)に初めて会った。教祖は、キクを見るなり「待っていた、待っていた。」と言葉をかけてくださった。教祖の温かくやわらかな心に、キクはいっぺんに心を引かれた。夫の病気は、ほどなく治まった。【逸話篇 10 えらい遠廻わりをして

翌元治元年、伊三郎15歳のとき、母キクが病気になった。それ以前にも、母とともに教祖のところへ参拝していたと伊三郎は、母の苦しむ姿を見るに見かね、夜の明けるのを待ちかねるようにして、教祖のもとへ願いに行った。すると教祖は「せっかくやけども、身上(みじょう)救(たす)からんで。」と言われた。伊三郎は家へ帰った。家では母が苦しそうにしている。それを見ては母をたすけてくださいと、再び教祖のもとへお願いに行った。すると教祖は「気の毒やけども、救からん」と言われる。伊三郎は家に帰った。家では母が苦しんでいる。それを見ては、たすけてくださいと、三たび、教祖のもとへお願いに行った。日は暮れて夜になっていた。すると教祖は、「子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と言われた。伊三郎は転げるようにして家に帰った。数日後、母の病気は、すっかり直ってしまった。【逸話篇 16 子供が親のために

明治7年(1874)6月18日の夜の「かぐら本づとめ」のとき、教祖よりのお言葉で「月よみのみこと」の座についた。それ以後、「かんろだい」を囲んでの「本づとめ」のときは、常に「月よみのみこと」の役割を受け持つことになった。

同年12月26日、教祖は初めて赤衣(あかき)を召されて、自ら、「月日のやしろ」であることの理を、形で鮮明にされ、同日、4人の人に「さづけ」(さずけ)を渡され、伊三郎は「かんろだいてをどりのさづけ」をいただいた。この日が、身上たすけ(人間の病気や怪我などの救済)のためにさづけの理を渡された始まりとなった。

明治9年春の初め頃、伊三郎は中山秀司のお供をして、堺県庁へ出かけて、蒸風呂と宿屋業の許可をもらってきた。この営業が始まると、伊三郎は風呂たきや宿屋の番頭もした。来客は教祖のお話を聞きに来る人が主で、朝と晩はおかゆ、朝帰る人たちだけはご飯を食べられたという。また、この年8月17日、式下郡小坂村(現、奈良県磯城郡田原本町)へ辻忠作、仲田儀三郎などと、雨乞づとめに出張している。さらにこの年、教祖の仲人で西尾ナラギク(後の桝井おさめ)と結婚した。挙式は扇子一対をかわすという簡単なものだった。翌年には妹のマス(結婚時にすまと改名)も教祖の仲人で村田亀松(後の幸助)と結婚している。明治16年8月15日、三島村での雨乞づとめに加わったというので、50銭の科料となった。

明治19年2月18日、教祖最後の御苦労の節で、櫟本分署で12日間拘引となったが、伊三郎も10日間拘引された。

明治20年2月18日(陰暦正月26日)午後のおつとめに、伊三郎は「かぐら」と「てをどり」を勤めた。

明治21年、天理教会所設置が東京で認可され、この設置とともに、天理教会本部理事を命ぜられた。またこの年7月には伊豆七条村から引き移り、教会本部のうちに一戸建てを建てて住まいした。

明治35年7月の「教会取締条規」の制定によって全国を10教区に分けて取締員が任命されたが、伊三郎は第7教区(岡山、広島、鳥取、島根、山口)と第8教区(徳島、香川、愛媛、高知)を担当、同40年5月の「教会組合規程」によって、組合長となり岡山、香川、徳島の各県を担当した。明治41年12月14日天理教教庁録事、本部員を拝命。明治43年7月1日出直した(61歳)。

ー天理教事典 第三版より抜粋ー

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