明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お坐りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、直ぐお居間へお引き取りになった。
かねてから、地福寺への願い出については、
「そんな事すれば、親神は退く。」
とまで、仰せになっていたのであるが、そのお言葉と、「たとい我が身はどうなっても。」 と、一命を賭した秀司の真実とを思い合わせる時、教祖の御様子に、限りない親心の程がしのばれて、無量の感慨に打たれずにはいられない。