明治十五年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来た時、教祖は、
「今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(註、こいその生家山中宅のこと)へもどこへも、道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの親里やで。」
と、お聞かせ下された。
それから程なく、五月十日(陰暦三月二十三日)午前八時、家の人達が田圃に出た留守中、山田こいそは、急に産気づいて、どうする暇もなく、自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよごれものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には、綺麗な産着を着せて寝かせてあった。
お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて頂いた。
この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、山中宅へも寄らず、三里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。
教祖は、
「もう、こいそはん来る時分やなあ。」
と、お待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱きになった。そして、
「名をつけてあげよ。」
と、仰せられ、
「この子の成人するにつれて、道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けておくで。」
と、御命名下された。