逸話篇

39. もっと結構

明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。

お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。

弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。

ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」 と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。

弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました。」 と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、

「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」

と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

ジフテリアとは

ジフテリア菌という細菌によって起こる感染症で、保菌者の咳などによって飛沫感染する。かつては免疫力の弱い子どもに多く発症し、死亡原因の上位を占めていた病気。

潜伏期間は通常1~10日間(2~5日が多い)約39.5℃までの発熱、喉の痛み、犬がほえるような咳、筋力低下、激しい嘔吐などが起こる。感染力が非常に高く、治療が難しいケースや命を落とすことも少なくない。

現在はジフテリアワクチンの接種(予防接種)の普及により、日本で発症が報告されたのは1999年が最後となった。

西浦 弥平(にしうらやへい)

弘化元年(1844)、大和国山辺郡園原村(現、天理市園原町)の農家に生まれる。

明治7年(1874)、園原村の戸長をつとめていた時、長男楢蔵が医者も見放すような重いジフテリアにかかったところを伸田儀三郎のおたすけによりたすけられる。その後、教祖(おやさま)のもとにお礼に上がり、一家をあげて信仰するようになった。ある夜更け、お参りから帰って休もうとしていると物音がするので起きて出てみると、泥棒が風呂敷包をかついで逃げようとしているところに出くわした。驚いた泥棒は風呂敷包をそこに置いたまま走り去った。翌朝、さっそく教祖のもとへお礼に行き、昨夜のことを話し、お陰様でなにも取られなかった旨を報告すると、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」とのお言葉が返ってきた。この一言に深い感銘を受けた禰平はその後、熱心に信仰するようになった。「教祖伝逸話篇 039 もっと結構

明治9年、隣家の上田ナライトの身上のさわりを機に同家に信仰を伝える。教祖が現身を隠された後、本席となった飯降伊蔵より最初に「かんろだいのさずけ」を頂く。

明治32年6月14日に出直した。56歳。

ー改訂 天理教事典より抜粋ー

仲田儀三郎(なかたぎさぶろう)

教祖(おやさま)の最も古い信者の一人で、天保2年(1831)5月25日、現在の天理市豊田町に生まれた。

文久3年(1863)33歳の時、妻きみが長男岸松を生んだ後、身体の具合の悪いのをたすけられて入信した。1カ月後には同村の辻忠作も入信し、2人でよく教祖に仕えた。

明治になって右衛門を名乗ることができなくなって、仲田は佐右衛門から儀三郎へ、辻は忠右衛門から忠作へと改名したが、教祖(おやさま)や周囲の人々は「さよみさん」「ちよみさん」と呼んでいたといわれる。

儀三郎は、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話篇』にたびたび登場し、教祖の側で教祖にいつも仕え、「取次人」として寄り来る人々に話を取り次ぎ、各地へ「おたすけ」に行ったり、「おてふり」を教えたり、また、教祖のお伴をして警察や監獄に拘置されたりしている。

元治元年(1864)の春頃から、教祖は熱心に信心する人々に「扇のさづけ」を渡されていたが、儀三郎は山中忠七と共に、「扇・御幣・肥まるきりのさづけ」を頂いた。同年の「つとめ場所」の普請については、畳6枚を受け持った。明治7年の「かぐら面」のお迎えの時にも、秀司や飯降伊蔵などと共に、教祖のお伴をして前川家に行っている。

明治7年(1874)陰暦10月、教祖は儀三郎と松尾市兵衛に対して「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と言われ、神職と問答をしている。折り返し大和神社の神職が、翌日には石上神宮の神職が5人連れで教祖を訪問し、教祖との間で問答が行われた。これがあって、奈良県庁の社寺掛から呼び出しを受け、さらに12月23日には、教祖が山村御殿(円照寺)へ呼び出された。山村御殿では役人の要請に応えて、儀三郎は辻の歌に合わせ、おてふりを行った。これ以後県庁はお屋敷へ参拝人が出入りしないように厳重な取り締まりを始めた。12月25日には、奈良中教院から、辻・仲田・松尾が呼び出しを受け、信仰差し止めをし、お屋敷の幣吊・鐘・簾などを没収していった。翌26日、教祖は「赤衣」を召されることになり、「一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井」と4人に直々さづけの理を渡された。

明治8年には、「かんろだいのぢば定め」に同席し、明治11年秀司を講元とする真明講設立の時には世話人として名を連ねた。この頃から官憲の取り締まりが厳しくなり、教祖やお屋敷の人々と共に度々引致、拘留、科料などを受けた。明治16年の三島村から頼まれて行った雨乞づとめにも参加し、この時も警察に引致され、後、科料されている。明治17年頃からはこうしたご苦労を教祖にかけたくないとの思いから教会設置に尽力した。明治19年の教祖最後のご苦労となる警察への引致・拘留にも教祖のお伴をした。明治19年6月22日、56歳で出直す。教祖は、「錦のきれと見たてたものやけど」と言われ、その死を惜しまれたという。

また、教祖が儀三郎に直接下さった言葉には次のようなものが伝わっている。

「さあ、これを持っておたすけに行きなされ。どんな病人も政かるで。」(監獄へお伴して帰った時、着ていた赤い橋杵を与えられた時)

「物は大切にしなされや、生かして便いなされや。すべてが神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなさい。」(監獄で差し入られた反故紙でコヨリを作り、一升瓶を入れる網袋を作られ、それを仲田に与えられた時)

「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。」と口ずさんで歩かれてから「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏でも、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのや。」(仲田家へ教祖が来られた時)

「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ。」(明治18年12月26日)

〔参考文献〕高野友治『先人素描』(天理教道友社、1979年)。

ー改訂 天理教事典より抜粋ー

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