逸話篇

123. 人がめどか

教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衞に、

 「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」

と、お諭し下された。生来、四郎兵衞は気の短い方であった。

 明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。

 足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。「あ、教祖が。」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。

 翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、

 「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで。」

と、仰せ下された。

中南の門屋(なかみなみのもんや)

  表通常門、長屋門ともいう。明治8年(1875)の建築、平家瓦茸両妻入母屋建て。間口6間半。奥行2間半。

明治16年御休息所が完成するまで、教祖(おやさま)のお居間に使用された。

大和では、門屋構えの住宅は村で数軒の豪農に限られたものである。中央に出入口があり、その左右は、下男部屋や道具小屋にあてられる習わしである。

教祖は、「その西側の10畳の部屋をお居間として、日夜寄り来る人々に親神の思召を伝えられた」(『稿本天理教教祖伝』134頁)。また東側の10畳は窓なし倉とし、永尾旦上皇の口述記には、教祖の指示により窓をつけず、末では75人のつとめ大衆の生き姿をおさめる所とされたという。

「中南」という表現をとったことの意は定かではない。しかし、次のような説が見られる。

①おやしきの表正面の門であるから。

②中とは、「ぢば」を指し、そのぢばから南であるから。③後に、中南の門屋の西側に天理教教会本部の門が、東側に東門ができたことから。

〔参考文献〕松隈青壷『稿本天理教教祖伝参考事典』。「永
尾芳枝祖母口述記」(『復元』第3号)。

梅谷 四郎兵衛(うめたに しろべえ)

弘化4年(1847)7月7日、河内国古市郡東坂田(後に西浦村東阪田、現在は大阪府羽曳野市東阪田)に梅谷久兵衛門・小きんの三男勝蔵として生まれた。万延元年(1860)、数え14歳の時、親戚筋の「左官四郎」浦田小兵衛の養嗣子となり、四郎兵衛を名乗る。

明治4年(1871)5月、上野たねと結婚。長男、二男の出直しが続いた後、明治10年に三男梅次郎が生まれた。同年末、養父の出直し後、事情により浦田の家を出て梅谷に復籍、分家。

明治12年、薩摩堀東之町の妻の実家跡に転居。翌年、長女たか(後の春野タカ)が生まれた。

以前から内障眼(そこひ)を患う実兄梅谷浅七に薬を送るなど心を掛けていたが、明治14年、弟子巽徳松の父親と雑談中に大和の生き神様の話を聞き参詣を決意。2月20日、巽徳松とともに「おぢば」に参詣。取次(とりつぎ)から聞く話に感動し、即入信。10日後には7、8名を連れておぢばに帰り、3度目は同行者30名という。明心組の講名を拝戴し、講元となった。

入信直後からおぢばに勤め、5月14日の「かんろだい」の「石出しひのきしん」、明治16年には「御休息所」の「壁塗りひのきしん」をしている。明治15年の毎日つとめのとき初めて「おつとめ」に出る。明治16年教祖(おやさま)御休息所お移り直後、赤衣を拝戴した。この年に四男秀太郎(後、喜多治郎吉の養子)出生。明治15年10月と19年2月の教祖御苦労のときは、差し入れに行っている。明治20年5月16日、「息のさづけ」を拝戴。

入信した明治14年、中山眞之亮の後見役山澤良治郎の依頼により、教会設置の伝手(つて)を求めたが頓挫。直後また、依頼により阿弥陀池和光寺へ手続書を提出。明治17年、中山眞之亮もまじえて協議がなされ、5月に四郎兵衛を社長として心学道話講究所天輪王社を大阪府に願い出た。梅谷宅に標札をあげて、順慶町で参拝所普請に掛かったが、別に教会設置の動きが起こって、おぢばに教会創立事務所が置かれ、頓挫。明治18年、教会創立事務所では選挙制や月給制度が協議されるようになり、四郎兵衛は参加を拒んで、おぢば参拝も1年ほど控えた。参拝所普請は四郎兵衛の手で再開、明治18年末に飯降伊蔵を迎え上棟を祝った。

明治21年、教祖1年祭中止直後の教会設立協議に参加し、眞之亮の上京の際は、留守役を頼まれて4月から「おやしき」に寄留している。教会本部設置とともに会計兼派出係に任じられ、その後、本部建築係や別席の「取次」(とりつぎ)なども勤めている。

四郎兵衛は入信後も左官の仕事を続けていたが、明治20年6月、弟子の巽に譲って転居。家族に洋家具商を営ませたが、翌年2月に廃業した。この頃、筆1本が買えず、母と子が泣いたこともある。明治22年2月から約1年、梅次郎は材木屋へ奉公に出た。

明治22年1月15日、船場分教会設置の許しを得て、初代会長となった。天輪王社を解消、跡地で増改築を行い、10月に開筵式執行。以後、分教会に住み込んだ。明治22年12月23日、妻たねも「おさづけの理」を拝戴。

明治28年、詰所普請に掛った。翌29年、それまで月のうち10日間本部に勤めていたが、分教会の月次祭前後以外はすべて本部に勤めることにし、明治30年からは詰所に移り住み、明治32年5月31日、まだ22歳の梅次郎に分数会長を譲った。2代会長は、米国布教やロンドン布教を推進している。

明治40年7月、京都と和歌山の教会組合長。明治41年12月、本部員。大正5年(1916)12月、本部会計主任。大正7年4月、2代真柱教育委員。大正7年8月14日、たねが出直し、四郎兵衛も翌大正8年5月29日に出直した(73歳)。→梅谷梅次郎、教会設置運動

〔参考文献〕『船場大教会史』。『梅谷文書』。高野友治『先人素描』(道友社新書)。道友社編『先人の遺した教話(一)一静かなる炎の人・梅谷四郎兵衛」。

ー天理教事典 第三版より抜粋ー