逸話篇

149. 卯の刻を合図に

 明治十七年秋、おぢば帰りをした土佐卯之助は、門前にあった福井鶴吉の宿で泊っていた。すると、夜明け前に、誰か激しく雨戸をたたいて怒鳴っている者がある。耳を澄ますと、「阿波の土佐はん居らぬか。居るなら早よう出て来い。」と。それは山本利三郎であった。出て行くと、「土佐はん、大変な事になったで。神様が、今朝の卯の刻を合図に、なんと、月日のやしろにかかっているものを、全部残らずおまえにお下げ下さる、と言うておられるのや。おまえは日本一の仕合わせ者やなあ。」と言うて、お屋敷目指して歩き出した。後を追うて歩いて行く卯之助は、夢ではなかろうかと、胸を躍らせながらついて行った。
 やがて、山本について、教祖のお部屋の次の間に入って行くと、そこには、真新しい真紅の着物、羽織は言うまでもなく、襦袢から足袋まで、教祖が、昨夜まで身につけておられたお召物一切取り揃えて、丁寧に折りたたんで、畳の上に重ねられていた。卯之助は、呆然となり、夢に夢見る心地で、ただ自分の目を疑うように坐っていた。すると、先輩の人々が、「何をグズグズしている。神様からおまえに下さるのや。」と注意してくれたので、初めて、上段の襖近くに平伏した。涙はとめどもなく頬をつたうが、上段からは何んのお声もない。ただ静かに時が経った。卯之助は、「私如き者に、それは余りに勿体のうございます。」と辞退したが、お側の人々の親切なすすめに、「では、お肌についたお襦袢だけを、頂戴さして頂きます。」と、ようやく返事して、その赤衣のお襦袢だけを、胸に抱いて、飛ぶように宿へ持ってかえり、嬉し泣きに声をあげて泣いた、という。
 註 卯の刻とは、午前六時頃。