明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは、一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て、顔を見せてもらいたい。」と言うて、呼びに来た。伊三郎は、かねてから、「我が田は、どうなっても構わん。」と覚悟していたので、「せっかくやが、かえられん。」と、アッサリ返事して、使いの者をかえした。が、その後で、思案した。「この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と、自分は満足している。しかし、そのために隣近所の者に不足さしていては、申し訳ない。」と。そこで、「ああ言うて返事はしたが、一度顔を見せて来よう。」と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、
「上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう。」
と、お言葉を下された。
こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜おそくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。
そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。
こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と、深く心に感銘した。
その年の秋は、村中は不作であったのに、桝井の家では、段に一石六斗という収穫をお与え頂いたのである。
嘉永3年(1850)2月12日、大和国添上郡伊豆七条村で農業を営む伊三郎、キクの三男に生まれた。幼名を嘉蔵といい、ついで伊右衛門と呼ばれ、父伊三郎が明治元年(1868)に出直したのち、伊三郎を襲名した。19歳のときであった。
伊三郎の入信は元治元年(1864)であるがその前年、母は夫が喘息で難渋しているため、あちらこちらの神仏に願いをかけていたが、よくならなくて、困り果てていた。隣家で傘屋を営んでいる矢迫仙助から、庄屋敷の神さんに参るよう勧められ、早速庄屋敷へ急いだ。そして教祖(おやさま)に初めて会った。教祖は、キクを見るなり「待っていた、待っていた。」と言葉をかけてくださった。教祖の温かくやわらかな心に、キクはいっぺんに心を引かれた。夫の病気は、ほどなく治まった。【逸話篇 10 えらい遠廻わりをして】
翌元治元年、伊三郎15歳のとき、母キクが病気になった。それ以前にも、母とともに教祖のところへ参拝していたと伊三郎は、母の苦しむ姿を見るに見かね、夜の明けるのを待ちかねるようにして、教祖のもとへ願いに行った。すると教祖は「せっかくやけども、身上(みじょう)救(たす)からんで。」と言われた。伊三郎は家へ帰った。家では母が苦しそうにしている。それを見ては母をたすけてくださいと、再び教祖のもとへお願いに行った。すると教祖は「気の毒やけども、救からん」と言われる。伊三郎は家に帰った。家では母が苦しんでいる。それを見ては、たすけてくださいと、三たび、教祖のもとへお願いに行った。日は暮れて夜になっていた。すると教祖は、「子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と言われた。伊三郎は転げるようにして家に帰った。数日後、母の病気は、すっかり直ってしまった。【逸話篇 16 子供が親のために】
明治7年(1874)6月18日の夜の「かぐら本づとめ」のとき、教祖よりのお言葉で「月よみのみこと」の座についた。それ以後、「かんろだい」を囲んでの「本づとめ」のときは、常に「月よみのみこと」の役割を受け持つことになった。
同年12月26日、教祖は初めて赤衣(あかき)を召されて、自ら、「月日のやしろ」であることの理を、形で鮮明にされ、同日、4人の人に「さづけ」(さずけ)を渡され、伊三郎は「かんろだいてをどりのさづけ」をいただいた。この日が、身上たすけ(人間の病気や怪我などの救済)のためにさづけの理を渡された始まりとなった。
明治9年春の初め頃、伊三郎は中山秀司のお供をして、堺県庁へ出かけて、蒸風呂と宿屋業の許可をもらってきた。この営業が始まると、伊三郎は風呂たきや宿屋の番頭もした。来客は教祖のお話を聞きに来る人が主で、朝と晩はおかゆ、朝帰る人たちだけはご飯を食べられたという。また、この年8月17日、式下郡小坂村(現、奈良県磯城郡田原本町)へ辻忠作、仲田儀三郎などと、雨乞づとめに出張している。さらにこの年、教祖の仲人で西尾ナラギク(後の桝井おさめ)と結婚した。挙式は扇子一対をかわすという簡単なものだった。翌年には妹のマス(結婚時にすまと改名)も教祖の仲人で村田亀松(後の幸助)と結婚している。明治16年8月15日、三島村での雨乞づとめに加わったというので、50銭の科料となった。
明治19年2月18日、教祖最後の御苦労の節で、櫟本分署で12日間拘引となったが、伊三郎も10日間拘引された。
明治20年2月18日(陰暦正月26日)午後のおつとめに、伊三郎は「かぐら」と「てをどり」を勤めた。
明治21年、天理教会所設置が東京で認可され、この設置とともに、天理教会本部理事を命ぜられた。またこの年7月には伊豆七条村から引き移り、教会本部のうちに一戸建てを建てて住まいした。
明治35年7月の「教会取締条規」の制定によって全国を10教区に分けて取締員が任命されたが、伊三郎は第7教区(岡山、広島、鳥取、島根、山口)と第8教区(徳島、香川、愛媛、高知)を担当、同40年5月の「教会組合規程」によって、組合長となり岡山、香川、徳島の各県を担当した。明治41年12月14日天理教教庁録事、本部員を拝命。明治43年7月1日出直した(61歳)。
ー天理教事典 第三版より抜粋ー
\ 桝井伊三郎に関する記事 /
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10. えらい遠廻わりをして文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運
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50. 幸助とすま明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた
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57. 男の子は、父親付きで明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと、大層腫れて来た
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16. 子供が親のために桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、五十町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお
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137. 言葉一つ教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、 「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気侭癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる。」 と。又、 「伊三郎さん、あんたは