明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと、大層腫れて来た。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。
その頃、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心する者を笑っていたぐらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。どちらかにしてもらいたい。」 とまで言ったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。
そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、
「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」
と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のなかが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしく御守護を頂けない。
明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、 ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、
「『男の子は、父親付きで。』 と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ。」 と、言ってくれた。それで、家へもどってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ。」と、言った。
それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっきり全快の御守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様の御守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。
嘉永3年(1850)2月12日、大和国添上郡伊豆七条村で農業を営む伊三郎、キクの三男に生まれた。幼名を嘉蔵といい、ついで伊右衛門と呼ばれ、父伊三郎が明治元年(1868)に出直したのち、伊三郎を襲名した。19歳のときであった。
伊三郎の入信は元治元年(1864)であるがその前年、母は夫が喘息で難渋しているため、あちらこちらの神仏に願いをかけていたが、よくならなくて、困り果てていた。隣家で傘屋を営んでいる矢迫仙助から、庄屋敷の神さんに参るよう勧められ、早速庄屋敷へ急いだ。そして教祖(おやさま)に初めて会った。教祖は、キクを見るなり「待っていた、待っていた。」と言葉をかけてくださった。教祖の温かくやわらかな心に、キクはいっぺんに心を引かれた。夫の病気は、ほどなく治まった。【逸話篇 10 えらい遠廻わりをして】
翌元治元年、伊三郎15歳のとき、母キクが病気になった。それ以前にも、母とともに教祖のところへ参拝していたと伊三郎は、母の苦しむ姿を見るに見かね、夜の明けるのを待ちかねるようにして、教祖のもとへ願いに行った。すると教祖は「せっかくやけども、身上(みじょう)救(たす)からんで。」と言われた。伊三郎は家へ帰った。家では母が苦しそうにしている。それを見ては母をたすけてくださいと、再び教祖のもとへお願いに行った。すると教祖は「気の毒やけども、救からん」と言われる。伊三郎は家に帰った。家では母が苦しんでいる。それを見ては、たすけてくださいと、三たび、教祖のもとへお願いに行った。日は暮れて夜になっていた。すると教祖は、「子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と言われた。伊三郎は転げるようにして家に帰った。数日後、母の病気は、すっかり直ってしまった。【逸話篇 16 子供が親のために】
明治7年(1874)6月18日の夜の「かぐら本づとめ」のとき、教祖よりのお言葉で「月よみのみこと」の座についた。それ以後、「かんろだい」を囲んでの「本づとめ」のときは、常に「月よみのみこと」の役割を受け持つことになった。
同年12月26日、教祖は初めて赤衣(あかき)を召されて、自ら、「月日のやしろ」であることの理を、形で鮮明にされ、同日、4人の人に「さづけ」(さずけ)を渡され、伊三郎は「かんろだいてをどりのさづけ」をいただいた。この日が、身上たすけ(人間の病気や怪我などの救済)のためにさづけの理を渡された始まりとなった。
明治9年春の初め頃、伊三郎は中山秀司のお供をして、堺県庁へ出かけて、蒸風呂と宿屋業の許可をもらってきた。この営業が始まると、伊三郎は風呂たきや宿屋の番頭もした。来客は教祖のお話を聞きに来る人が主で、朝と晩はおかゆ、朝帰る人たちだけはご飯を食べられたという。また、この年8月17日、式下郡小坂村(現、奈良県磯城郡田原本町)へ辻忠作、仲田儀三郎などと、雨乞づとめに出張している。さらにこの年、教祖の仲人で西尾ナラギク(後の桝井おさめ)と結婚した。挙式は扇子一対をかわすという簡単なものだった。翌年には妹のマス(結婚時にすまと改名)も教祖の仲人で村田亀松(後の幸助)と結婚している。明治16年8月15日、三島村での雨乞づとめに加わったというので、50銭の科料となった。
明治19年2月18日、教祖最後の御苦労の節で、櫟本分署で12日間拘引となったが、伊三郎も10日間拘引された。
明治20年2月18日(陰暦正月26日)午後のおつとめに、伊三郎は「かぐら」と「てをどり」を勤めた。
明治21年、天理教会所設置が東京で認可され、この設置とともに、天理教会本部理事を命ぜられた。またこの年7月には伊豆七条村から引き移り、教会本部のうちに一戸建てを建てて住まいした。
明治35年7月の「教会取締条規」の制定によって全国を10教区に分けて取締員が任命されたが、伊三郎は第7教区(岡山、広島、鳥取、島根、山口)と第8教区(徳島、香川、愛媛、高知)を担当、同40年5月の「教会組合規程」によって、組合長となり岡山、香川、徳島の各県を担当した。明治41年12月14日天理教教庁録事、本部員を拝命。明治43年7月1日出直した(61歳)。
ー天理教事典 第三版より抜粋ー
\ 桝井伊三郎に関する記事 /
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10. えらい遠廻わりをして文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運
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50. 幸助とすま明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた
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16. 子供が親のために桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、五十町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお
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122. 理さえあるならば明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出てい
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137. 言葉一つ教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、 「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気侭癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる。」 と。又、 「伊三郎さん、あんたは
教祖(おやさま)から直接仕込みをうけた高弟の一人で幼名を忠右衛門と言う。天保7年(1836)大和国山辺郡豊田村(硯、奈良県天理市豊田町)に父忠作、母りう(おりう)の長男として誕生した。
父のしつけと生来の負けず嫌い、それに何事にも熱中する性格とが相まって、1年を3年分にも働くということで、千日さんと綽名されるほどの無類の働き者に成長し、23歳で家督を継ぎ忠作と名乗った。辻家には忠作という名前が3代にわたって受け継がれたようである。
忠作は妹くらの精神の患いをたすけられて教祖に心が向き、追うように長男由松の原因不明の高熱をたすけられて信仰の心を固めた。文久3年(1863)、忠作28歳のことである。
毎月26日、月に一度の参拝という形で開始された信仰は、やがて野良仕事がすめば夕食もそこそこに教祖の所へ通いつめて教えを受けるようになった。
元治元年(1864)には「肥のさづけ(さずけ)」を頂き、最初に「てをどり」(ておどり)の手ほどきを受けた。
忠作の信仰は、同じ豊田村の仲田儀三郎と競うように固められていき、明治6、7年頃には教祖のお供をするようになった。教祖とともに留置されたり、警察から信仰を止めるよう強要されたりしたが、動じるどころか、ますます信仰に熱が入り、履き替えの草鞋を2、3足も腰に結んで人たすけに歩き回り、ついには警官に「根限り信仰してみよ。その代わり本官も根限り止めてやる。」と言わせる程になった。
また、記憶力に優れ、事に触れては書き留めた忠作の手記は、天理教の初期の歩みを知る上で貴重な史料となっている。
明治19年(1886)の春から、教祖の指図によって家業を長男の由松に委せ、お屋敷に詰めて人々に親神の教えを取り次ぐようになった。一途で子供のように純真な人柄は多くの人々から慕われたが、明治38年(1905)7月12日、70歳の生涯を閉じた。
〔参考文献〕文教部宗教教育課編「先人手記抄」。三才社編『高弟列伝』第二編の中「辻忠作先生」。高野友治著『先人素描』(天理教道友社、昭和封年)。高野友治著『御存命の頃一改修版・上-』(天理教道友社)。辻忠作「ひながた」(『復元』31号)。諸井政一『改訂正文遺韻』。
ー天理教事典 第三版より抜粋ー
\ 辻忠作に関する記事 /
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6. 心を見て嘉永五年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。教祖の三女おきみの人にすぐれた人柄を見込んで、櫟本の梶本惣治郎の母が、辻家の出であったので、梶本の家へ話したところ、話が進み、
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9. ふた親の心次第に文久三年七月の中頃、辻忠作の長男由松は、当年四才であったが、顔が青くなり、もう難しいという程になったので、忠作の母おりうが背負うて参拝したところ、教祖は、 「親と代わりて来い。」 と、仰せられた。それで、妻ますが、背負
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62. これより東明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」
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65. 用に使うとて明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、 「守りが要る、守りが要る。」 と、仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう。」という事になった。
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166. 身上にしるしを明治十八年十月、苣原村(註、おぢばから東へ約一里)の谷岡宇治郎の娘ならむめ(註、当時八才)は、栗を取りに行って、木から飛び降りたところ、足を挫いた。それがキッカケとなってリュウマチとなり、疼き通して三日三晩泣き続けた。
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191. よう、はるばる但馬国田ノ口村の田川寅吉は、明治十九年五月五日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に十七才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。 明治十九年八月二十九日、田川講元